これも津山事件に関連するもんですかね。
古尾谷は亡くなる前、この映画を自分が監督としてリメイクしたい。
社会保険労務士• 後は長いものには巻かれろ。
実際にはもっと多くの現場写真が載っているはずで、「防犯展」で展示されたのは、それと出所が同じ写真だったと思われる。
犠牲者数は鬼熊は3人、睦雄30人で10倍。 事件翌年、当時の岡山地方裁判所検事局がまとめた(発行名義は司法省刑事局)「津山事件報告書」は、占領期間中に接収された1冊がアメリカの大学図書館に所蔵されており、マニアはそれを見ているようだ。 睦雄はこの青山部落から津山市街に抜ける荒坂峠へと最後の歩みを進んで行くことになる。
12『』、、、• みさは一軒目の被害者であるつきよの娘で、睦雄が夜這いしようとして断られたことがあった。
大正デモクラシーの名残りも色濃く、「国家権力=軍隊と警察に対する国民の批判力や反抗心をつちかうことにもなった」(加太こうじ「昭和犯罪史」)。 これはこの本のみの話ではないが、ルポルタージュは、もっと図表を使って分かりやすい形で表現すべきであろうと思う。 頭には、懐中電灯を取り付けた鉢巻を装着。
13もお読みください。
10年以上現地を取材してきた著者による、新事実を含めた労作。 「(昭和)22年の秋か23年の春ごろのことだったろう。
6鬼熊と鬼熊事件は「陽」で、睦雄と津山三十人殺しは「陰」といえる。
「昭和13年に起こった、この世にも恐ろしい事件を、私がはじめて聞いたのは終戦後のことだった」と「横溝正史自選集3」の「付録資料 八つ墓村」に書かれている(初出は1977年の毎日新聞の連載記事)。
主人の母親で、「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲した(至近距離で肋骨への被弾が幸いし、奇跡的に一命を取り留めた)。 岡山の地元紙「合同新聞」1938年5月25日夕刊に掲載された連載企画「稀代の殺人鬼・都井睦雄(中)」にはこう記されている。
13都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見された。